mynooのブログ

酔った勢いで日々思ったこと感じた事を気まぐれで文章化します。

深い思考をするために何をすべきか?

深い思考が出来たらと切に願う。浅い思考しか出来ず苦しんでいる。

思考が浅い故に自分の軸が大きくブレる。自分の考えをしっかり持った人間になるために深い思考が出来るようになりたい。

 

なぜ深い思考が出来ないのか?どうすれば深い思考が出来るか?仮説を立てるために、まず、自分なりに“深い思考”を定義する。

 

“深い思考”を、見えている側面のみに囚われずに「①見えていないところをロジカルに想像することで補完」し、適切に全体像をとらえたうえで「②抽象化して本質を抜き出す」。そして、抜き出した本質に対して、「③一般的な事実や己の経験を絡めて物質的・時間的にロジカルに思考を積み重ねる」ことだと定義する。

 

この定義を今の自分に照らし合わせると、初っ端の「①見えていないところをロジカルに想像することで補完」が不十分であるといえる。これまで何度か目上の方から様々な指摘を頂いたが、多くは議論のスタートについてであったように感じる。かなり昔ではあるが就職活動をしていた時も、「すごく素敵な絵を描いているように感じるが、キャンバスの隅に描いている」といった指摘を頂いた。おそらく全体を正しく把握できていないのであろう。

 

では、どうすれば「見えていないところをロジカルに想像することで補完」できるようになるだろうか?まずは、思考対象の次元を整理することだと思う。次元を正しく定義することが出来て初めて深い議論が出来るではないか。結局、思考の前準備を怠らないことが重要なのであろう。

あったらいいな

攻殻機動隊を観ていてふと思ったが、テレパシーが出来る装置があったらいいなと思った。

 

多くの人に囲まれている中で特定の人に意思を伝えらえられたら素晴らしいが、電話やメールとの違いを明確にするために、テレパシーとは何か定義しなくてはいけない。そこで、テレパシーとは以下の3つを満たすコミュニケーション手段であると定義する。

①周囲に内容が漏れない

②本人の肉体的状況に影響されない

③視覚を利用しない

 

これら3つを満たすコミュニケーション手段が確立された場合、どんなことができるだろうか?少し考えてみたが、ぱっと思いついたのが、「自宅で知人たちと楽しく飲むことが出来る」、「スポーツやバラエティー番組で楽しい時間を共有できる」であった。どんなすごいテクノロジーがあっても欲求の本質は変わらないとしみじみと感じるとともにおのれの想像力の限界を感じた。

 

一方で、テクノロジーによりテレパシーが実現された場合、それはもはや人間にとって新たな感覚器といえるのではないかとも感じた。テクノロジーを駆使して人間の感覚器を拡張する。最近のはやりの表現を使うと感覚器2.0。テクノロジーにより既存の感覚器を強化するだけでなく、拡張する。そんな未来も遠くないはず。

衣食足りて礼節を知る

マズローの欲求5段階説という有名な法則がある。これは人間の行動の動機、つまり欲求を5段階に階層化したものである。マズローによると人間は生命を維持するための本能的な欲求である生理的欲求から始まり、最終的には自己実現の欲求を行動の動機とする。

 

マズローの欲求5段階説の観点で現在の日本を観るとどうだろうか?低次の欲求である”生理の欲求”や”安全の欲求”については十分満たされているといえる。一方で、次の欲求である"社会欲求と愛の欲求"についてはもがき苦しんでいるように観える。その結果がSNS(インスタグラム)や自己啓発本のブームだろう。個人的には、高次の欲求のためにもがき苦しむことは悪いことではないと思う。そうやって新しい文化が生まれていくのだと思っている。江戸時代の後半が良い例だと思う。

 しかし、10年後、20年後の日本を観るとどうだろうか?少子高齢化やインフラの老朽化が進み、もしかしたら現在満たされている”生理の欲求”や”安全の欲求”が満たされなくなるのではないかと危惧している。そうすると、生きるために生きる世の中になってしまう。そうはさせたくない。

 

私個人の目標としては、これから先何十年も国民に”生理の欲求”と”安全の欲求”が満たされる、つまり最低限度の生活を営んでいただけるようなソリューションを提案・実装できるSEになりたいと思っている。

自分を定義すると?

自分を定義するものは何か?全てにおいて形作るものはI/Fである。では、人間にとってのI/Fは何か?

 

近年時代の変化が激しく、油断をすると自分とは何か分からなくなってしまう。そこで、自分を見失わないようにするために自分というものを定義することに挑戦したい。

 

人間にとってのI/Fは、外見は言うまでもないが、内面的には長所・短所、好き・嫌いであると考える。

 

 長所は、知的好奇心が旺盛であること。最近は、複雑系・進化・人工知能・歴史に興味を持っている。シンプルなルールが時に創造を遥かに超える結果につながること、世の中の流れを知ることに興味がある。

 一方で短所は、少々飽きっぽいところである。次から次に興味が移るため一つのことに長い時間をかけたことがない。例えば大学では電気電子を専攻し大学院では応用数学を専攻している。そして現在はIT系でエンジニアとして働いている。専門分野が不明である。

 好きなことは、前進すること。嫌いなことは、留まること。とにかく99%は後退しても1%は成長したい。100%停滞することよりはマシである。

 

何とも稚拙な文章ではあるが、何事も着手しないと始まらない。

自分の考えが欲しい

自分で考えるというのは本当に難しい。何か考えたつもりになっても実は過去に読んだ本を引用しているだけだったりしている。そんな中、ふと「考えるとは何か?」を考えていた。

 

「考えるとは何か?」を定義するにあたって、今回は、よく似た行為である「記憶する」、「妄想する」を定義することで、違いが何であるかを明確にするというアプローチをとった。なお、「記憶する」、「妄想する」、「考える」がMECEになっているかどうかはここでは考慮しない。

 

 まず、「記憶する」とは「人体に備わった感覚器によって計測した連続した情報を、時間軸を保持して取り出せるように記録することであり、抽象化はしない。」と定義する。例えば、「そこの角を右に曲がるとセブンイレブンがある」などである。

 

 次に「妄想する」とは、「記憶した情報を目的に則って抽象化し再度具体化することで都合の良い世界をイメージすることである。」と定義する。つまり、体の感覚器によって計測する情報を自分で都合の良いように作り出すことといえる。

 

 では、「考える」とは何か?「記憶した情報を抽象化して具体化する。そして、過去の類似の記憶と比較して尤もらしさを判断する」と定義する。

 

この定義が正しいかどうかはわからない。しかし、これからの時代は自分の頭で考えることが重要であると思う。

 

次なるテーマは「記憶とは何か?」「抽象化とは何か?」「判断するとは何か?」である。